岩屋毅外務大臣は、大分県出身で衆議院10回当選を果たしたベテラン政治家です。
2024年10月に石破内閣で外務大臣に就任した彼は、地元の名士として知られています。
防衛大臣や外務副大臣を歴任し、安全保障・外交分野で豊富な経験を持つ一方、様々な論争にも直面してきました。
本記事では、岩屋毅外務大臣のwiki経歴や地元での活動、そして「媚中外務大臣」と呼ばれる理由についても詳しく解説していきます。
Contents
岩屋毅外務大臣のwiki経歴

|
岩屋毅氏は、日本政治の中枢で長年活躍してきた政治家です。
現在67歳で、石破内閣で外務大臣として日本外交の舵取りを担っています。
趣味はサイクリング、ギター、書道と多彩で、座右の銘は「敬天愛人」。
父親の岩屋啓氏も元大分県議会議員で、政治家一家で育ちました。
政界入りの経緯

岩屋毅氏が政治の道を志したきっかけは、父親の存在があります。
医師でありながら県議会議員を務めた父・啓氏が、大学2年生の時に3度目の県議選で落選。
この出来事が、岩屋毅氏の人生を大きく変えることになりました。
父の敗北を目の当たりにした岩屋毅氏は、自身の無力さを痛感したと語っています。
東京に戻った彼は、多くの政治家を輩出している「早稲田大学雄弁会」に入会。
ここでの活動が、後の政治家としての基礎を形成することになります。
まさに父親のリベンジを誓った政治家への道だったのですね…。
議員秘書から県議会へ

大学在学中、選挙のアルバイトをきっかけに鳩山邦夫衆議院議員の事務所で活動を始めます。
卒業後は正式に秘書となり、国会や選挙区での活動を通じて政治の実務を学びました。
1987年、29歳という若さで大分県議会議員選挙に立候補し、見事初当選を果たします。
父の後援会はほぼ消滅していたため、一からの出発でした。
「明日の郷土を語る会」という集会を重ね、地道に支持を広げていった努力が実を結んだのです。
国政でのキャリアと変遷
画像引用元:毎日・世論フォーラム
1990年、32歳で衆議院議員に初当選します。
「しらしんけん平成維新」をスローガンに掲げ、政治刷新を訴えました。
選挙期間中に父・啓氏が他界するという悲劇に見舞われましたが、これを乗り越えて3位で当選を果たしました。
しかし、その後の道のりは決して平坦ではありませんでした。
1993年に政治改革を巡り自民党を離党し、新党さきがけの結党に参加しますが、直後の総選挙で落選してしまいます。
その後も1996年の総選挙で再び敗北し、計7年間の浪人生活を経験しました。
2000年、自民党から立候補し7年ぶりに国政復帰を果たします。
復帰後は安全保障・外交分野で実績を積み重ね、2001年には防衛庁長官政務官、2006年には外務副大臣に就任しました。
2018年には第4次安倍改造内閣で防衛大臣として初入閣し、約11ヶ月間在任しています。
挫折から這い上がった経験は、彼の政治家としての強さの源になっているように感じます。
岩屋毅氏の国政キャリア年表
年 | 年齢 | できごと・役職 |
---|---|---|
1987年 | 29歳 | 大分県議会議員に初当選 |
1990年 | 32歳 | 衆議院議員初当選(旧大分2区、無所属)、自民党入党 |
1993年 | 35歳 | 自民党離党、新党さきがけ結党に参加、総選挙で落選 |
1996年 | 38歳 | 新進党から総選挙に出馬するも落選 |
2000年 | 42歳 | 7年ぶりに国政復帰(自民党から当選) |
2001年 | 43歳 | 防衛庁長官政務官就任(第2次森改造内閣) |
2006年 | 48歳 | 外務副大臣就任(第1次安倍内閣) |
2010年 | 52歳 | 自民党国防部会長就任 |
2012年 | 54歳 | 自民党安全保障調査会会長就任 |
2018年 | 60歳 | 防衛大臣就任(第4次安倍改造内閣)、初入閣 |
2024年 | 66歳 | 外務大臣就任(石破内閣) |
過去の疑惑
岩屋氏には、いくつかの疑惑が報じられてきました。
2019年に発覚した統合型リゾート(IR)事業を巡る汚職事件では、中国企業側から現金を受け取った疑惑が浮上しています。
岩屋氏本人は金銭授受を否定していますが、米司法省が関連企業の元幹部を起訴したことで、疑惑が再燃しました。
また、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の関連団体に祝電を送っていたことも明らかになっています。
石破内閣の閣僚11人に同様の接点があったとされ、政権全体の課題となりました。
個人的なスキャンダル
2025年1月、外遊から帰宅した際に赤坂議員宿舎の自室に見知らぬ女性が侵入していた事件が発生しました。
岩屋氏は事実を認め、「すぐにお帰りいただいた」と説明しています。
この件では、危機管理の甘さを指摘する声やハニートラップの可能性を懸念する声が上がりました。
外務大臣という重要なポストにある人物だけに、セキュリティ意識が問われる事態となったのです。
岩屋毅外務大臣は地元の名士
画像引用元:TOS NEWS
岩屋氏は大分県別府市で生まれ育ち、長年にわたり地元に根ざした活動を続けてきました。
その実績と人柄から、地元では名士として広く知られています。
地元別府市での深い結びつき
岩屋氏は1957年に別府市で生まれ、青山小学校・青山中学校を卒業しました。
政治家としてのキャリアをスタートさせた際も、別府市を拠点に活動を展開しています。
地元事務所は地域住民との交流の場として機能しており、支援者からの信頼は厚いものがあります。
生まれ育った土地で政治活動を続けることで、住民の声を直接聞く姿勢を貫いてきました。
地域振興への貢献
別府市を含む大分県は温泉地として有名で、観光産業が地域経済の柱です。
岩屋氏は観光立国政策や地域振興策を推進し、地元の観光業界から高い評価を受けています。
彼の妻も「地元や全国の観光地のために力を発揮してほしい」と述べており、家族ぐるみで地域に根ざした活動を行っているのが印象的です。
長年の政治キャリアと地元支援者の支え
1987年の県議会議員初当選以来、岩屋氏は一貫して大分県を代表する政治家として活動してきました。
2度の落選という苦境を経験しましたが、その間も地元での活動を継続し、支援者との絆を深めたといいます。
岩屋氏自身も「地元の皆さんが諦めず支えてくれたおかげ」と感謝の意を表明しています。
この相互の信頼関係が、現在の強固な支持基盤につながっているのでしょう。
地元での信頼と期待
岩屋氏が外務大臣や防衛大臣といった重要ポストに就任するたびに、別府市では祝賀ムードが広がります。
2024年の外務大臣就任時には、地元事務所に多くの支援者が集まり活躍を祝福しました。
地元の支援者からは「平和を守る外交をしてくれる」といった期待の声が寄せられており、彼の政治活動が地元住民の誇りとなっていることがわかります。
地元での積極的な活動
岩屋氏は地元での国政報告会や記者会見を頻繁に開催しています。
2025年4月には別府市内で報道関係者と懇談を行うなど、地域住民との対話を重視する姿勢を示しました。
このような地道な活動の積み重ねが、地元名士としての地位を確固たるものにしているのです。
岩屋毅外務大臣が媚中外務大臣と言われる理由
画像引用元:毎日新聞
岩屋氏の外交姿勢については、「中国寄り」との批判も存在します。
その背景について見ていきましょう。
媚中外務大臣とは?
「媚中外務大臣」とは、中国に対して過度に配慮する外交姿勢を持つ外務大臣を批判する言葉です。
岩屋氏は日中関係の改善を重視する姿勢を明確にしており、これが一部で「中国寄り」と受け止められています。
保守派の一部からは、国益を損なうとの懸念の声も上がっているのが現状です。
中国人ビザ緩和の推進
岩屋氏は中国人観光客向けの短期ビザ発給要件の緩和を推進しました。
富裕層向けの10年間有効な観光ビザの新設や滞在可能日数の延長などが実施されています。
この政策は観光業の振興を目的としていましたが、「中国に対して甘すぎる」「売国行為」といった厳しい批判を受けました。
オーバーツーリズムへの懸念も指摘されています。
日中外相会談での発言
2024年12月の日中外相会談で、岩屋氏が「村山談話を堅持する」と述べたことが報じられました。
この発言は歴史問題における日本の立場を示したものですが、「中国に迎合している」との批判を招いています。
また、2025年9月には中国の「抗日戦争勝利80周年」記念に対し、日本の立場を明確にすることを避けたとされ、「弱腰」との声も上がりました。
中国との経済協力強化
2025年3月、岩屋氏は中国の王毅外相と「第6回日中高級経済対話」を共同議長として開催しました。
両国の経済的利益を共有する方向性が示されましたが、「中国に有利な条件を提供している」との批判も受けています。
岩屋氏は頻繁に中国を訪問し、要人との会談を重ねています。
日中関係の改善を目指す姿勢は明確ですが、国内保守派からは「中国に媚びている」との批判が強まっているのです。
これらの批判に対し、岩屋氏は「全世界に顔を向けて外交を行っている」と反論し、中国だけでなく他国との関係強化にも努めていると主張しています。
まとめ
岩屋毅外務大臣は大分県別府市出身のベテラン政治家で、衆議院10回当選の実績を持ちます。
7年間の浪人生活を経て国政復帰を果たし、防衛大臣や外務大臣を歴任しました。
地元では観光振興や地域貢献により名士として知られ、支援者との強い絆を築いています。
一方で中国との関係改善を重視する外交姿勢から「媚中外務大臣」との批判も受けており、今後の外交手腕が注目されています。