東京オリンピック柔道100kg級金メダリストのウルフ・アロン選手。
23年間の柔道人生に終止符を打ち、新日本プロレスへ電撃転向したことが話題になりました。
この衝撃的な決断の背景にはいったい何があったのでしょうか?
この記事では、ウルフ・アロン選手のwiki経歴から学歴、そして柔道引退からプロレス転向に至る詳しい理由について徹底解説したいと思います。
Contents
H2:ウルフ・アロンのwiki経歴
ウルフ・アロン選手は東京都葛飾区で生まれ育った、アメリカ人の父と日本人の母を持つ、ハーフのアスリートです。
本名は「アロン・フィリップ・ウルフ」ですが、「ウルフ」という名前の響きは格闘技をする上ではすごく強いイメージをもたらしますね!
幼少期から中学時代

アロン・ウルフ選手が柔道を始めたのは6歳の時。
きっかけは母方の祖父からの「体が大きいから柔道を始めてみたらどうだ」の一言からでした。
小学1年生ですでに身長130cm、体重30kgと同年代よりも2年ほど早かったのです。
通常、小学1年生男子の平均身長は116.7cm、体重は21.7kgですので、かなり大きかったことが分かりますね!
講道館の春日柔道クラブで本悪的に柔道人生をスタートしたウルフ・アロン選手ですが、最初の練習は全く面白くなかったようですね。
それでも指導者に「面白かった?」と聞かれた際には、先生の顔が怖くて「面白かったです」と答えたそう。
いくら体は大きいとはいえ、やっぱり小学1年生ですね…。
文京区立第一中学校に進学した後は、一時期柔道への気持ちが離れ、勉強に集中して学年3番の成績を収めた時期もありました。
しかし、中学2年生の終わり頃、後輩に屈辱的な負け方をしたことがきっかけで柔道への情熱が再燃!
この”悔しさ”がウルフ・アロン選手を柔道の道へと戻し、東京オリンピックでの金メダル獲得への道筋となったのではないでしょうか!
頭角を現した高校時代

中学時代のウルフ・アロン選手は、都大会のレベルの高さに阻まれ、全国大会へ出場は果たせませんでした。
高校は千葉県の東海大学付属浦安高等学校への進学を決断、環境を変える一大決心をしたのです。
この高校を選んだ理由は、「やらされる」練習ではなく、「自分で考えてできる」環境を求めてのことでした。
都内の実家から千葉の高校まで自転車で通い、足腰を鍛える日々を送りました。
この3年間の通学がウルフ・アロン選手の代名詞となる無尽蔵のスタミナの原点になったといっても過言ではないでしょう!
そしてその努力は見事に実を結び、高校2年生の時には、全国高校選手権、金鷲旗、インターハイを制する「高校三冠」を達成!
中学時代の挫折から見事に這い上がったのです。
国内外での躍進した大学時代

大学は東海大学に進学し、大学1年生で全日本ジュニア体重別選手権大会を制し、世界ジュニア選手権大会で3位入賞!
幸先の良い、素晴らしいスタートを切りました。
大学2年時にはグランプリ・ウランバートルでIJFワールド柔道ツアー初優勝を達成。
その後も講道館杯や全日本選抜体重別選手権大会など、国内の主要タイトルを次々と獲得していきます。
この頃のウルフ・アロン選手はまさに無双状態ですね!
そして大学4年生時には、ハンガリーのブダペストで開催された世界選手権に初出場。
6試合中4試合が延長戦にもつれ込む激闘を制し、見事金メダルを獲得しました。
この勝利により、ウルフ・アロン選手が世界のトップレベルにあることが証明されたのです。
大学時代の主な獲得タイトル一覧
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柔道キャリアの頂点!オリンピックでの栄光

2019年4月に体重無差別で争われる全日本選手権で初優勝を果たしたウルフ・アロン選手。
この実績で、念願のオリンピック代表の座を掴みました!
2021年に開催された東京オリンピックでは、男子100kg級決勝で韓国のチョ・グハムを破り見事金メダルを獲得!
男子100kg級では2000年シドニーオリンピックの井上康生監督以来、21年ぶりとなる日本の金メダルという快挙でした。
東京オリンピック以降、数々のメディアに出演したウルフ・アロン選手のキャラクター性が光り話題の人となったのもこの頃からでしたね。
柔道では無双の強さを誇り、見た目とは違いお茶目でユニークなウルフ・アロン選手に魅力を感じました。
2024年のパリオリンピックでは個人戦7位と残念な結果となりましたが、混合団体では銀メダルを獲得!
2大会連続のメダル獲得を果たしました。
ウルフ・アロンが柔道を引退した理由

ウルフ・アロン選手の引退決意は、パリオリンピック前の2024年2月頃には固まっていました。
引退会見で「パリ(五輪)で結果を残すためには、パリで終わりと決めないと頑張れないと思った」と語りました。
そこには、パリオリンピックに臨むウルフ・アロン選手の強い覚悟と決意を感じますね。
また、「悔いは全くない。去年のパリ五輪が終わった段階で燃え尽き、やり切った。柔道は人生そのものだった」と心境を明かしています。
東京オリンピックでの金メダル獲得、柔道三冠達成と全力で駆け抜け真摯に協議に取り組んだからこそ言える言葉でしょうね。
ウルフ・アロンがプロレスに転向した理由は?

引退会見から2週間後の2025年6月23日、ウルフ・アロン選手は新日本プロレスへの電撃入団を発表しました。
オリンピックの金メダリストがプロレスに転向したケースは前例がなく、多くの人が驚きを隠せなかったのではないでしょうか?
ウルフ・アロン選手が柔道からプロレスへと転向した本当の理由について詳しく見ていきたいと思います。
プロレス転向の根本的理由
ウルフ・アロン選手は入団会見で転向理由について「好きだからです」と明確に答えていました。
これは素直で真摯なウルフ・アロン選手らしい回答ですね。
「憧れだったプロレスの道に進ませていただきます」とも言っています。
柔道人生を納得いく形で全うし、かねてからの夢を実現するためのウルフ・アロン選手の新しい挑戦の始まりですね。
転向に至った具体的な経緯
プロレス転向のきっかけは、新日本プロレスのスカウト部長・永田裕志さんとの出会いでした。
東京オリンピック後からSNSを通じてやり取りがあり、2024年9月にはウルフ・アロン選手のYouTubeチャンネルでコラボしています。
パリオリンピック後に、永田さんの「永田裕志のゼァ!チャンネル」にウルフ・アロン選手が出演!
昨秋に都内で食事を共にした際、永田さんから「ぶっちゃけ、うちはあなたに入ってほしい」とオファーを受けました。
しかし、ウルフ・アロン選手は「私の方から新日本に入りたいとお伝えさせていただきました」とコメント。
言われから受けるという受け身ではなく、自ら決断して転向したという強い気持ちが伝わってきますね。
プロレスを選んだ理由
柔道出身者が格闘技界に転向するケースでは、総合格闘技を選ぶことが多い中で、なぜウルフ・アロン選手はプロレスを選択したのでしょうか。
ウルフ・アロン選手は、「試合前、試合、試合後すべてを表現したい」と語っており、競技を超えたエンターテイメントとしてのプロレスに魅力を感じていたのでしょうね。
「もともとウルフ・アロン選手は面白くてエンターテイナー」と山里亮太も評価する通り、ウルフ・アロン選手にはプロレスが合っていると思います。
新日本プロレスを選んだ理由

ウルフ・アロン選手「やるなら親日でやりたい。それ以外はない」と断言しています。
新日本プロレスは日本最大のプロレス団体であり、世界的な知名度も高いのです。
エンターテイメントとしてプロレスに魅力を感じているウルフ・アロン選手にとって親日を選択するのは至極当然のことでしょう。
現在の状況と今後の展望
ウルフ・アロン選手は現在新日本プロレスの練習生として、朝一のスクワット500回から始まる厳しい練習に取り組んでいます。
「今はまだ慣れていないので、めっちゃキツい」と語りながらも、「理にかなっている」と前向きに受け止めています。
柔道で頂点に立ったウルフ・アロン選手だからこそ、基礎の大切さがどれだけ大切か分かっているのだと思います。
デビュー戦は2026年1月4日、東京ドームで開催される新日本プロレス最大の「WRESTLE KINGDOM 20」に決定。
「もう半年もない。死に物狂いでやるだけ」という覚悟からデビュー戦を勝利で飾ろうという並々ならぬ意気込みが感じられますね。
最終目標としては、「新日本の中で一番大きなタイトルであるIWGP世界ヘビー級のベルトは巻いてみたい」と明かしています。
柔道で頂点を極め、プロレスに本気で取り組んでいるウルフ・アロン選手。
「IWGP世界ヘビー級のベルト」をウルフ・アロン選手が巻く日は、来るのではないでしょうか!
ウルフ・アロンのプロフィール
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ウルフ・アロン選手は3兄弟の真ん中として育ち、アメリカ人の父と日本人の母を持つハーフです。
「地球人」という言葉を好んで使い、多様性について独自の哲学を持っています。
見た目のワイルドさとは裏腹に、親しみやすい人柄とエンターテイナー気質で多くの人に愛されています。
まとめ
ウルフ・アロン選手の柔道引退からプロレス転向という衝撃的な決断は、23年間の柔道人生を完全燃焼し、新たな挑戦への強い意志が感じられます。
東京オリンピック金メダリストという輝かしい経歴を持つウルフ・アロン選手。
今度はプロレスのリングで新たな伝説を築こうとしています。
2026年1月4日の東京ドームでのデビュー戦が今から楽しみですね!